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第59章で女性の土地相続を否定している。この条項がしばしばヨーロッパの王位継承に関して持ち出され、女性王位継承に対して否定的な陣営にとって根拠にされた。この条項は中世のサリー系フランク人と呼ばれる集団が、4世紀以降トクサンドリア地方においてサリー系フランク人とシカンブリ人を核にして、ローマ系住民を含めた様々な人々がローマ帝国の同盟軍として共同の兵役を務めた中から形成されたことに起源を持っている。この兵役勤務者に与えられた入植地をテラ・サリカと呼び、兵役を勤める男子のみに継承を許したと想定されている。このテラ・サリカをめぐる事情から後世、フランク人の元では男子のみ土地相続とそれに伴う王位・爵位を得られると解釈された。女系の相続権はあり、男子がいない場合、女子の配偶者や息子が土地相続者となった。 フランス王国では、他家(特にプランタジネット朝)の干渉を恐れて、くりっく365 法を根拠として女系を含む女性の王位継承権を廃止したため、女王が選出される事が無かった。ただし諸侯にはその法は採用されていない。14世紀にフランスでカペー朝が断絶すると、イングランド王エドワード3世(母親がフランス王フィリップ4世の娘)が女系の継承権を主張したために百年戦争が勃発した。戦争でイングランドが優位に立つと、ヘンリー6世がイングランドとフランスの王を兼ねると宣言されたが、結局フランスが勝利したため、ヴァロワ朝、ブルボン朝を通じてサリカ法典に基づく王位継承が行なわれた。 ドイツでも一般にサリカ法典が採用されていた。ハノーファー公(選帝侯、のち国王)は1714年以来イギリス国王を兼ねていたが(ハノーヴァー朝)、1837年のヴィルヘルム(ウィリアム4世)の没後、姪のヴィクトリア女王がイギリス王位を継承すると、サリカ法典を取るハノーファーはヴィルヘルムの弟(ヴィクトリアの叔父)エルンスト・アウグストを国王とし、同君連合を解消した。 長くドイツの影響下にあったルクセンブルクでは1815年の大公国成立以来、オラニエ=ナッサウ家のオランダ国王が大公を兼ねる同君連合が組まれていたが、1890年にオランダでヴィルヘルミナ女王が即位すると、女系継承の規定がないルクセンブルクは同君連合を解消し、遠縁に当たるナッサウ=ヴァイルブルク家のアドルフを大公に迎えた。だが2代で男系が絶えてしまったため、継承法を改定して女子の継承を認めることとなり、女大公が2代続いた。 トロワ条約(フランス語:traite de Troyes, 英語:treaty of Troyes)は、1420年5月21日にフランスのトロワの大聖堂で調印された条約。百年戦争の戦局でイングランドを優位に立たせた条約で、フランス国王シャルル6世の死後、イングランド国王ヘンリー5世がその後継者になるとされた。 この条約の中でフランスの利益を代表していたのは、外為 フィリップ3世(善良公)であった。国王シャルル6世は当時既に発狂しており、1392年以来、もはや直接に国の統治をしていなかったからである。フィリップ善良公とヘンリー5世は、王太子シャルル、後のシャルル7世に対抗して同盟を結んでいた。 シャルル自身の「大罪」によって、自称王太子が後継者になる正当性は否定される。シャルルは1419年9月19日にフィリップ善良公の父、ジャン1世(無怖公)の殺害を命令したことを非難された。また、王妃イザボー・ドゥ・バヴィエールの不貞に関連したシャルルの出自の不当性についての噂がブルゴーニュ派によって吹聴されたが、そのような噂はシャルル6世を怒らせずにはいられなかった。 シャルルは全ての称号を失ったが、ブールジュに逃れ、フランス南部の統治は維持した。その一方で条約の調印者たちは、ヘンリー5世と、シャルル6世とイザボーの娘カトリーヌの結婚を取り決めた。これによって、ヘンリー5世は唯一のフランス王位の継承者となり、摂政としてフランスの国政に携ることとなった。つまり、シャルル6世は自らの王位を婿、場合によっては生まれてくる孫に伝えることになったのである。 1420年12月1日、ヘンリー5世はシャルル6世、フィリップ善良公と共にパリに凱旋した。パリ大学とワラント はトロワ条約を支持した。 後に法学者たちは、外為 はフランス国王が意のままにできるのものではないと主張してトロワ条約を破棄し、シャルルに与した。これは百年戦争の発端となった議論と類似していた。 1422年8月31日にヘンリー5世は死亡し、続いてシャルル6世も同年10月21日に死んだ。ヘンリー5世の6ヵ月になる息子は、ヘンリー6世の名で「フランス王およびイングランド王」と宣言された。ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターがフランス摂政となり、ロワール川以北でシャルル7世に忠誠を尽くす最後の町オルレアンを攻囲することになる。 バルディ社(Compagnia dei Bardi)は、フィレンツェの銀行および貿易会社。 1344年に破産した。フィレンツェの著作家不動産投資 は、イングランド王エドワード3世に貸し付けた戦争ローンの支払い拒否によるものだと非難した[1]。もっとも、これと前後してバルツィ社だけではなく、ヴィラーニの兄弟が働いていたブオナッコルシ家やペルッツィ家まで破産してしている。ヴァリーニによれば、エドワード3世はバルディ家から90万フロリン金貨(13万5000リラ)、ペルッツィ家から60万フロリン金貨(9万リラ)を借りていたということである[2]。ペルッツィ家の金額が少ないのは、彼らがそれほどたくさんの資本を持っていなかったことを示している。エドワード3世は借金を全額不履行にしたわけではなく、いくらかを現金で、それ以外にも、当時のイギリス経済の主要輸出品目であった羊毛の補助金で支払った。 フィレンツェが大混乱に陥っている間に、さらに4つめの巨大金融会社が破産した。アッチャイオーリ家の会社であるが、彼らはエドワード3世に金を貸していたわけではなかった。つまり、エドワード3世が不履行にした貸し付けは、フィレンツェに深刻な金融上の問題を与えはしたが、すべての原因ではなかったことになる。 第一次カスティーリャ継承戦争 (スペイン語表記:Primera Guerra Civil Castellana)は、1366年から1369年まで続いたカスティーリャ王国の内戦。広義でみると、イングランド王国とフランス王国の対立も含むことから、百年戦争の一部と考えられている。初めはカスティーリャ王国の継承をめぐり、国内と国外の勢力の支持を受けて、ペドロ1世とその異母兄エンリケ・デ・トラスタマラ(のちのエンリケ2世)が王位を争った。 ペドロは支持者らに『審判王』と呼ばれたが、敵からは『残酷王』と呼ばれていた。高位貴族にとって、ペドロは圧制者であり、王権に対抗しようとする者に容赦しなかった。彼はアラゴン王国への勢力拡大を画策し、アラゴンへの侵入を繰り返していた(ロス・ドス・ペドロス戦争)。 ペドロの異母兄エンリケは、高位貴族の支持を取り付けたのみならず、フランスとアラゴン、教皇庁も味方につけた。1366年、彼は公式にカスティーリャ、レオン、トレド、セビーリャで異母弟ペドロを廃位させ、ラス・ウエルガス修道院で自身が王位に就いた。 1366年、フランスで暮らしていたエンリケは、フランス・アラゴン構成軍とイングランド傭兵からなる大軍をモンペリエで集結させ、フランス王とアラゴン王の援助を受けカスティーリャへ侵攻した(シャルル5世とアラゴン王ペドロ4世も各自参加した)。エンリケは、ペドロ1世を敗走させるのに成功した ペドロ1世は、イングランド王家の所領ガスコーニュにあるバイヨンヌへ亡命した。彼はエドワード黒太子に援助を申請し、見返りにカスティーリャの所領の分割を申し出、受諾された。黒太子の率いるイングランド軍とともに、ペドロ1世はカスティーリャへ戻り、1367年に自身の王位を再度主張し、ナヘラの戦いで勝利してエンリケをフランスへ敗走させた。ところがペドロ1世は黒太子や彼の同盟者との取引を拒絶し、そのため黒太子はまもなくカスティーリャを離れた。1368年、エンリケとシャルル5世はトレド条約に署名し、陸上での軍事援助の見返りに、ビスケー湾上にカスティーリャ艦船を貸すことになった。 1369年にエンリケは再度侵攻、モンティエルの戦いでペドロ1世を謀殺した。彼はエンリケ2世を名乗り、すぐに公職からユダヤ人を追放し、自身の支配を堅固にした。この時期からカスティーリャは、戦争においてフランスとの同盟をおこなうようになった。