株ってなぁに?
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株主優待
1316年にルイ10世が亡くなった時、男子の跡継ぎがなく、唯一の女子(ジャンヌ)が王妃の不倫により王家の血を引いていないのではないかという疑惑が有ったため、女性の当主を認めないサリカ法典を理由にルイ10世の弟のフィリップ5世が王位を継承した。フィリップ5世にも女子はいたが男子は無く、弟のシャルル4世が跡を継いだが、シャルル4世にも男子が無いことで、再び後継問題が浮上した。フランス貴族の多数は、外国の君主がフランス王になることを好まず、男系の長系であるヴァロワ家のフィリップ(フィリップ6世)を選び、ジャンヌの系統やプランタジネット家に王位が渡ることを避けるために、サリカ法典をさらに拡大解釈し、女王のみならず女系の王位継承をも禁止した王位継承法を制定した。
当時のヨーロッパでは、男系優先ではあっても女系の継承権を認める慣習が主流であり、フィリップ4世の娘である母イザベラを通して女系の継承権を有するエドワード3世は異議を唱えたが、エドワード2世の廃位により混乱が続くイングランドの状況では、これを認めるしかなかった。
1337年におけるエドワード3世の王位継承権は決して非現実的なものではなかったが、既にフィリップ6世が即位して10年が経って既成事実化していること、女系を含めた継承権でもジャンヌの子であるナバラ王カルロス2世の方が優先することからも実現性は低かった。また、神聖ローマ皇帝やローマ教皇、その他の周辺諸国も強力なフランスが分割されて弱体化することは支持できても、イングランド、フランスを併せた強大な君主が誕生することは認められなかった。
1330年、赤がイングランド王支配地ギエンヌ、ポンテュウ伯領、縞がアンジュー帝国の版図、線はワインや羊毛などの物資の流れエドワード3世が再びスコットランドの統合に乗り出すと、1334年にフランスが亡命してきたデイヴィッド2世を保護し支援する意図を見せたため、両国の関係は再び悪化した。
イングランドはこれまでの経験から、スコットランドを併合するにはフランスを叩いて手を引かせる必要があること、ガスコーニュを確保するには、イングランドからの支援なしに防衛できるだけのまとまった領土を宗主権ごと有する必要があることを学んでいた。
エドワード3世は度重なるスコットランドとの戦闘の
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によりロングボウを中心とした軍事力に自信を深めており、王位継承権を大義名分としてアキテーヌの失った領土はもとより、ジョン王の時代に失ったアンジュー帝国時代の大陸領土を取り返すことを狙っていた。
一方、フランス王フィリップ6世も、優越する国力に自信を持っており、デイヴィッド2世をスコットランドに戻して牽制させながら、ガスコーニュを完全に併合し、フランス王国の支配を完成させることを目指していた。
当時のローマ教皇は既にアヴィニョンに滞在し(アヴィニョン捕囚)、暗黙にフランス王を支持しており、中立的な調停者として権威を喪失していた。一方、神聖ローマ帝国では大空位時代は終わったものの、ハプスブルク家、ルクセンブルク家、ヴィッテルスバッハ家が交互に帝位についており、当時の皇帝ヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世 はローマ教皇と激しく対立し破門されていた。フランスはフランス王太子ジャン(後のジャン2世)と婚姻を結んだルクセンブルク家を支持していた。
こうした中で、エドワード3世はルートヴィヒ4世と同盟し、フィリップ6世はローマ教皇ベネディクトゥス12世の権威を利用しながら共に低地(ネーデルラント)諸侯の支持を得ようとしていた。
ブルターニュ継承戦争(ブルターニュけいしょうせんそう、英語:Breton War of Succession, 1341 - 1364年)は
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初期において、ブルターニュ公の継承争いにより起きた戦争でイングランド王、フランス王が介入し、両者の代理戦争の様相を示した。イングランドの支援を受けて1364年のオーレの戦いで勝利したジャン4世[1]がフランスの支援を受けたシャルル・ド・ブロワを破って最終的に公位についたが、フランス王シャルル5世と和解し、封臣として封建的臣従の礼を取った。
ブルターニュ人は古代にブリテン島から移住してきたケルト人で民族的な繋がりがあることと、中世になってブルターニュ公がイングランドのリッチモンド伯を与えられたことにより、イングランドとの関係は深かった。しかし、アルチュール1世が亡くなった後、アンジュー家に代わって公位についたドルー家はフランス王との関係も良好だった。
ブルターニュ公ジャン3世の父アルチュール2世は最初の妻マリーとの間にジャン3世、ギー等の子供がいたが、2番目の妻モンフォール女伯ヨランド(元スコットランド王アレグザンダー3世の妻)との間にジャン等の子供達を持った。父の死後、公位についたジャン3世はヨランドとその子供である異母弟たちを嫌い、ヨランドの婚姻の無効を申請して、ジャンらの相続権を奪おうとしたが認められなかった。ジャン3世には子供がなく、跡継ぎとして同母弟のギーを指名していたが、1331年にギーは亡くなっている。このため、その娘ジャンヌが跡継ぎと見なされたが、後にジャンとも和解しており、1341年4月30日に亡くなった時には特に跡継ぎを指定しなかった。
このためすでにモンフォール伯を
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していたジャン・ド・モンフォールとパンティエーヴル伯を相続していたジャンヌが共にブルターニュ公の相続権を主張した。
ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワの母はフランス王フィリップ6世の姉であり、フィリップ6世は甥夫妻の相続を支持(コンフランの決定)した。ジャン・ド・モンフォールは対抗上、すでに百年戦争でフランスと対立状態にあったイングランド王エドワード3世をフランス王と認めて、その支援を求めた。
興味深いことにエドワード3世は女系継承によりフランス王位を主張しており、それに対しフィリップ6世は男系継承優先を主張してフランス王となったが、ブルターニュではそれぞれ反対の相続理由を主張する候補を支持したことになる。しかし、継承制度は明確に決まっているわけではなく、地域によっても異なるため、特に矛盾とは思われていない。ジャン・ド・モンフォールの主張は、ブルターニュ公は、すでにフランス王国の「同輩」(pair)になっており、最年長の
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が最年長の女子よりも相続権が上に位置するイル=ド=フランスの慣習を適用するべきだと主張しており、一方で、ブルターニュの慣習では女子による相続が排除されない(しかも過去3度女婿による相続が行われている)ので、パンティエーブル女伯の継承順位が上だと一般に認められていた(だからこそエドワード3世は、彼女がブロワと結婚する前には自分の弟との結婚を成立させようとしていた)。
ブルターニュの貴族の多くはシャルル・ド・ブロワを支持していたため、ジャン・ド・モンフォールは開戦後、先手を取り首都のナント、リモージュ等の主要都市を押さえ、8月までにレンヌ、ヴァンヌを含むブルターニュ公領の大部分を支配下におさめた。
1341年当時には、イングランドとフランスは停戦協定を結んでいたため、エドワード3世は動けなかったが、フィリップ6世は国内問題であるとして積極的にシャルル・ド・ブロワを支援して、10月にシャントソー(Champtoceaux)の戦いで勝利し、ナントを陥落させジャン・ド・モンフォールを捕虜とした。
しかし、ジャン・ド・モンフォールの妻ジャンヌは女傑といわれ、息子のジャン(後のジャン4世)の後見人として徹底抗戦を行った。ブロワ派の勢力の強い東部を防衛するのは無理と判断して西ブルターニュのエヌボン(Hennebont)に籠城した。シャルル・ド・ブロワの包囲を受けると、配下の騎士を連れて包囲を突破しブレストに行き、援軍を引きつれて再びエヌボンの包囲を突破し城に戻ったという武勇伝が伝えられている。1342年8月まで耐え抜いた結果、イングランドとフランスの停戦期間が終了し、ノーサンプトン伯ウィリアム、サー・ウォルター・マーニーの援軍が到着し、ブレストの海戦でジェノヴァ艦隊を破った。これを見たシャルル・ド・ブロワは包囲を解いて撤退している。
イングランド軍のカレー侵攻を恐れて、フィリップ6世がフランス軍をブルターニュから引き上げたため、シャルル・ド・ブロワは独力で戦うことになったが、戦闘指揮官として有能だったため、レンヌ、ヴァンヌを奪うことに成功した。これにより、モンフォール派の離脱が相次ぐようになった。この頃の戦いで百年戦争の原因の1人であり、イングランド側に就いていたロベール3世・ダルトワ(母がブルターニュ公家出身)が戦死している。